高砂神社秋祭り2015 宵宮
2015年10月10日、高砂神社秋祭りの宵宮(神幸祭)を見に行った。
11時。街の人々から惜しみない拍手を送られ、神輿渡御行列が出発する。
今年の御先司(おさきつかさ)は戎町、獅子司(ししつかさ)は農人町。
街の中を子どもたちと大人たちに曳かれてだんじりや神輿が進む光景は、いつ見ても心が和む。高砂の宵宮で一番好きな光景だ。
御旅所は毎年恒例、ショッピングモール「サンモール高砂」の駐車場。
御旅所祭が終わると、恒例の「神輿くぐり」。願いごとをしながら神輿の下をくぐると願いが叶うと言われる。子どもたちは難なくくぐっていたけど、大人はちょっと一苦労である。
御旅所の前をだんじりが何度も全速力で往復する。神様の旅の再開である。勢い余って転倒する人もいた・・・。
1日がかりの神様の旅も終り、神輿が神社へ帰ってきた。鳥居をくぐり楼門の前で最後の神輿振りが行われた。
高砂の秋祭りはこの高砂神社といい、あるいは曽根や荒井といい、お隣の姫路の荒々しさとは少し違う「優美さ」が大きな魅力である・・・ということにやっと気づいた。
甲子園 2015夏
今日は日曜の第3試合、更に同じ関西勢の天理と智弁和歌山も登場するとあってなかなか切符が手に入らず、やっとスタンドに入れた時には既に3回に差しかかっていた。
滝川第二のエース、友井寛人投手。
滝川第二の応援はロッテにも似てタオルを振り回すスタイルだった。
「シーソーゲーム」という言葉を絵に描いたような1点を追いつ追われつの試合は9回、結城選手のヒットでサヨナラ勝ち。
思えば1年前の夏に見た沖縄尚学-二松学舎の試合も同じ9回サヨナラ勝ちで、この一塁側アルプスから応援したのを覚えている。
校歌斉唱。
「♪万古色増す神撫や 水溶々の須磨の浦
我が滝川の学園は 熱血燃ゆる若人の
理想に清き花かおる 映ゆる姿の気高さよ♪」
板宿にある滝川高校と同じ校歌なのだろうか?
山本真史監督。滝川高出身の保健体育の先生で、1999年夏にベスト8に導いた。私もつい最近まで知らなかったのだが、自主性を重んじる優れた監督のようだ。マネージャーへの気遣いにも、人柄の良さがうかがえる。
校歌斉唱を終え、選手たちがスタンドへ挨拶に向かう。
中越に先制されて重苦しい空気から始まり、山名選手の怪我というアクシデントもあったけど、勝てて良かった。
そういえば、アルプススタンドの後方で「よーいやさー!よーいやさー!」の声が聞こえていたが、あれは播州から来た少年野球の子どもたちだったのだろうか?
高校野球ユニフォーム・北海道
2004年夏、白河の関を大きく飛び越え、初めて優勝旗を北海道に持ち帰った。翌年も57年ぶりとなる夏の甲子園2連覇、更に翌年は3連覇こそならなかったものの、早実との引き分け再試合の末に準優勝。その大活躍は今も記憶に新しい。
帽子のKマークは白だが、何故かヘルメットのマークは黄色(金糸か?)になっていた。
駒大苫小牧が台頭する前、北海道の高校野球における名門といえばこの駒大岩見沢だった。このグレーのユニフォームと「ヒグマ打線」と呼ばれた強力打線は有名で、1993年春にはベスト4にも進出したが、2014年3月を以て廃校となった。
帽子のマークは「KOMAZAWA」だが、「K」1文字の時期もあったようだ。
北海(札幌市)
更に歴史をさかのぼると、北海道で最初の名門はこの北海高だった。プロに輩出した選手も数多く、1963年春の選抜では準優勝している。
東海大四(札幌市)
今春のセンバツで準優勝した。縦縞に筆記体ロゴというお馴染み東海大系のユニフォームだが、白地で袖文字もない比較的シンプルなデザインだ。現在はストライプが太くなり、間隔も広くなったようだ。
高校野球ユニフォーム・香川&徳島
1924年に行われた第1回センバツの優勝校であり、春夏それぞれ2回ずつの優勝を誇る香川の名門。いわゆる「四国四商」の1校をなす学校だが、1996年春夏を最後に甲子園からは遠ざかっている。1回の守備につく前の「志摩供養」は有名(現在は甲子園では行われず、夏の香川大会でのみ行われている)。
1995年春のセンバツで初出場優勝。同年夏も甲子園に出場したがこの時は初戦敗退。それ以降、春夏を通じて全く甲子園には出場していないのだが、何故かこのシンプルなユニフォームは鮮烈な印象に残っている。
全身が純白1色で胸に校章、色も赤系というデザインは、同じ四国の土佐高を想起させせる。
1980年代から力をつけ、2000年代まで甲子園の常連校であったが、近年は甲子園から遠ざかっている。帽子のマークが漢字1字というのはかなり珍しい。昔読んだ本によれば、胸の文字が旧字体で「盡誠」と書かれていた時期もあったようだ。
いわゆる「四国四商」の1校。準優勝した1958年夏、魚津高との延長18回引き分け再試合は有名。「四国四商」の4校の中で唯一、ロゴの表記が「~SHO」となっている。近年は左袖に校章(帽子のマークと同じ)が入ったようだ。
池田(三好市)
1970~80年代、蔦文也監督のもと「山彦打線」で一時代を築いた。春夏合わせて優勝3回、準優勝2回。1982年~83年にかけて夏春連覇。
とてもスタイリッシュなデザインで、個人的に好きなユニフォームの1つだ。袖のラインは蔦監督の母校である同志社大をフィーチャーしたという説を聞いたことがあるのだが、本当だろうか。
鳴門(鳴門市)
戦後間もない1950年代に優勝1回、準優勝2回。徳島商と並ぶ強豪の1つであった(当時も今と同じデザインだったのだろうか?)。近年はまた頻繁に甲子園に出場するようになった。実際は左袖に校章が入る。
高校野球ユニフォーム・京都&滋賀
春38回・夏32回の甲子園出場は全国最多。特に夏の大会に相性が良く、優勝3回・準優勝4回を誇る。春の選抜は長らく優勝経験がなかったが、2014年に初優勝を果たした。純白の地に紺のブロック体で「HEIAN」とのみ書かれたシンプルなユニフォームは、戦前から続く伝統と古都らしい気品を感じる。
(2016.3.5追記)
龍谷大平安となった現在のユニフォームを追加した。基本デザインは変わらないものの左袖に「龍谷大学」の文字が入った。個人的には入れない方が良かったように思うのだが(大体大浪商も浪商時代と変わらないシンプルなデザインだし)・・・。
京都商(京都市)
優勝経験はないが、1940年春・1981年夏に準優勝。野球王国の京都にあって、京都二中や平安中などと共に戦前から活躍し、沢村栄治投手をはじめとする草創期のプロ野球を彩った名選手も数多く輩出した。1986年夏を最後に甲子園出場はなく、校名も現在は京都学園と改められた。
近江(彦根市)
琵琶湖の湖水をイメージしたといわれる、お馴染みの水色のユニフォーム。2001年夏には準優勝した。現在は帽子のマークが変わり、胸のロゴも筆記体になったようだ。
近年はあまり甲子園で見なくなっていたが、今夏の甲子園に久しぶりに出場。自分が高校野球を見始めた90年代には頻繁に出場していた。もっと昔はロゴがローマ字の「HIEIZAN」となっていたようだ。
高校野球ユニフォーム・広島
春1回、夏6回の全国優勝を誇る、戦前から続く名門。堅い守りとバントを駆使する「広商野球」に、しゃもじを叩く応援スタイルで有名だが、近年は甲子園から遠ざかって久しい。
一説によるとこのユニフォームは早稲田大をイメージしてデザインされたという話を聞いたことがあるのだが・・・本当だろうか?
広島商と並んで広島を代表する名門。春のセンバツで3回の優勝を誇り、夏の甲子園に強い広島商と比較して「春の広陵、夏の広商」と呼ばれる。
2000年代中頃に右の赤いロゴのユニフォームにリニューアルされた。伝統校ということもあって当初はネット界隈の評判も今一つだった記憶があるが、2007年夏の甲子園で準優勝してからはそうした声も聞かれなくなった。両方とも実際は袖に校章のエンブレムが入っていたと思う。
崇徳(広島市)
読みは「すとく」ではなく「そうとく」。1976年春のセンバツで初出場優勝を果たした。ここではオミットしたが、ストッキングの黄色が良いアクセントになっている。昨年、岐阜・中京高との延長50回の試合で話題となった軟式野球部も、ほぼ同じデザインのようだ。
1973年夏に広島商を優勝に導いた迫田監督を招聘し、1990年代後半から力をつけてきた。青が基調のユニフォームは、やはり校名の水をイメージしたのだろうか?
高校野球ユニフォーム・岡山&鳥取
1965年春のセンバツで優勝した、岡山を代表する名門(岡山県勢の甲子園優勝は現在のところ、春夏通じてこの1回のみ)。ユニフォームのクリーム色は地元の名産の桃にちなみ「白桃色」と呼ばれている。
岡山南(岡山市)
1970年代後半~90年代にかけて甲子園に何度も出場、多くのプロ選手も輩出した。この水色のユニフォームは1度だけ、テレビ中継で見たことがある。かつてはこの岡山南をはじめ、横浜商や取手二など水色のユニフォームを着た学校を度々見たものだが、近年はとんと見かけなくなってしまったのが寂しい。
1999年夏の甲子園で準優勝。今も岡山県内では語り草になっている。現在はロゴの書体と左袖の校章がマイナーチェンジされたが、ここでは当時のものを掲載した。
米子東(米子市)
1960年春のセンバツで準優勝した、鳥取県を代表する名門。1996年春の選抜に出場した時、テレビ中継で見たこのユニフォームは強く印象に残っていた。
純白を基調に、ロゴと帽子のマークは鮮やかな明るい緑で黄色の縁取りが入る(実際は左袖に紋章が入る)。ロゴなどに深緑を使う学校は度々あるが、このような明るい緑を使う学校は全国的にも非常に珍しいのではないか。昔からこの明るい緑を使っていたのだろうか。
昭和50年代、甲子園で一時代を築き「山陰の暴れん坊」の異名をとった。鳥取県において私学が甲子園に出場したのは、この倉吉北が初めてだったという。
このユニフォームは当時の徳山監督がデザインしたものだったらしい。袖やズボンの太いラインは他にも横浜商や取手二、金足農など、同時期に活躍した学校が採用していたが、この時代の流行だったのだろうか。
八頭(八頭町)
1980年代後半から力をつけ、夏を中心に度々甲子園に出場している。肩のラインは箕島や郡山、新湊などに似た雰囲気がある。実際は右袖に校章が入る。